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ISEKAI(伊勢流陰陽五行学)連載記事

天然居士・伊勢瑞祥<誕生秘話> 第二回

「その世」に来るには、この世のすべて、家族も友人もあらゆる持ち物を捨てねばならなかった。天は有無を言わせない。それでよかったのかどうか?下の子が20歳になった時、突然わたしの事務所に現れた。「ど、どうしてわたしがここにいるのがわかったんだ?」「お父さん、お久しぶりです。僕20歳になりました。母は今元気に暮らしています。姉も就職してIT会社に勤めています。相変わらずそばにキスチョコがありますね。僕もこれ好きだったんです。」という話から、いろいろな思い出の話で時間を忘れていた。
やっぱり、これでよかったのだ。それにしても「我が初代女房殿は偉い!子供をこんなに立派に育て上げてくれたのだ」そして「それを見せてくれたのだ」「わたくし約束通りに子供を一丁前にしましたよ。わたしはわたしでこの世で生きていきます。あなたもあなたでその世でしっかり生きてください」と。感動と感謝と尊敬の念でいっぱいだった。「この世で一緒に暮らした初代女房はほんとにすごい女性だった」と改めて実感したのだ。
今わたしは「その世」で生きている訳だが、このすばらしい世界にたどり着くには「天に素直に従える自分」になっていなければならない。それを教えるために天は一つの哲学書と三人の使者にわたしを出合わせたのだ。彼ら三人は天の使者、天使だったのだ。この世での自分は「天に素直でない、野望と打算と欲望の恐れ知らず」だったのだ。その世に来るための階段を歩き始めたのは32歳で結核性カリエスに罹った時で、歩き終えたのが、 10年後の42歳で、あの「天の声」を聴いた時だったのだ。
果たして、わたしは「この世」でどんな人間をやっていたのだろうか。これから順を追ってみてみよう。

第二回

「この世」のわたし:


退院をして、毎日毎日リハビリと称する散歩をしていた。30分歩けば腰がムズムズしてくるので喫茶店で一休み。そしてまた歩く、の繰り返し。道を歩くと、人々がいろんな顔をして働いている。窓を拭いたり、商品を並べたり。うらやましいなあ。でもわたしには「さあ、元気になったら、また頑張るそ~、働くぞ~」といった気持が湧きあがらない、燃えてこない。「なぜなんだ」と一瞬あせりはじめたが、「待てよわたしをあの世ではなく、その世に生き返らせたのは天ではないか。だったらいずれ天がわたしにこれからどう生きるのかを教えてくれるはずだ」と割り切って考えるのをやめた。喫茶店シャノアールでゆっくりしてると「この世」でのいろいろな昔がよみがえってきていた。


わたしは、北海道旭川市近郊に生まれた。イノウというところがあり、アイヌ部落だった ところだ。祖父は徳島県から一攫千金を狙って北海道にきて、商売が成功し一代で金持ち になった人だ。祖母はイノウのアイヌの人だ。その三女の長男として生まれたのがわたしだ。
祖父は常に「鶏口となるも牛後となるなかれ」という主義だ。父は北大の医学部を出て教授に推薦されたのだが、貧乏であったため、金持ちの三女である母と結婚し、旭川で開業医となった。わたしは生まれつきアイヌの血が混じっているらしく、探検が好きで勝気であった。今でも大好きなカムイコタンの山と吊り橋とそこに流れる石狩川が友達であった。カムイコタンはイノウの隣で、親に叱られてはそこに逃げ込んでいた。運動神経は抜群で、腰は太く強かった。学校でも成績優秀で優等生の一員となった。だが、一回も全校一番にはなれなかった。どこでも必ず天才というのがいて、いつもそいつが一番だった。先生や親のいうことを一切無視し、うぬぼれが強いので周りから煙たがられる存在だった。「ぼくは親とは合わない。こんな家の子とし生まれたのが不幸だ」と思っていた。だが祖父母は「孫一じゃあ、孫一じゃあ」と可愛がってくれていた。


中学二年が終わり、三年生になるはずの時、校長のUE先生から「校長室に来なさい」と言われた。「君、東京へ行きなさい。なあに、都会の子は利口そうに見えても大したことない。
君なら勝てるぞ。行ってきなさい。親にはわたしから話しておくから」


「そうなのか。ぼくはすごい人なのかも。よしやってやるぞ、校長先生がぼくを認めてくれたんだ」函館本線の急行アカシアで函館に着き、青函連絡船に乗り込んだ。青森発の急行 みちのくの窓からの景色はいかにもこじんまりとしていて、箱庭のようだった。しかし、 上野駅を降りたとたん「どうも合わないな。薄汚れた空と汚いビル、すべてが灰色だあ、 なんか冷たい感じがする。来るんじゃなかったかも」と元気と夢が一気に落ちていた。


A中学の三年生に編入した。わたしは丸坊主で、身長も140cm弱で、丸いメガネをかけていた。編入当初は、方言と田舎者とあまりの幼児性でみなからバカにされていた。一切、相手にされないのだ。本気で東京が嫌になった。その時ちょうど、中間テストというのがあって、成績が廊下に張り出されたのだ。全校で一番がいつもその中学で一番であったNG君、二番が新潟から編入してきた白い顔のTG君、そしてなんとわたしが三番であった。その時からやっとわたしが周囲から認められたのだった。「やっぱり植松校長のいう通りだった、
東京の奴って、普段は大人ぶったり、偉そうだったり、利口ぶっているが、いざとなると 大したことないや」とますます、勝気さとうぬぼれが強くなっていた。


2・うぬぼれ街道:


当時の北海道では考えられないほど、ここ東京では「受験、受験」とやたら騒がしいのだ。 わたしは進学校K高校に入った。秀才ばかりが居るんだそうだ。ここも同じようなことだった。小さくて小学生にしか見えないわたしを最初はみなバカにしていたが、試験結果が廊下に張り出され、わたしが全校で九番だったことが判ると、途端にわたしを見る目が違ってきたのだ。その頃、新聞社主催の全国絵画コンクールがあり、それもついでに銀賞をとったものだから、わたしのうぬぼれは最高潮に達していたのだ。「ぼくはそこら辺のザコとは違うんだ」


それから、H大学商学部に合格した。そこからわたしのうぬぼれ協奏曲はとんでもない人生をスタートさせることになった。「ぼくは人とは違うんだ。人のできないことをやれる人間なんだ。常識的ではないんだ。祖父と同じ鶏口となるも牛後となるなかれ、で生きるんだ。ぼくはこれまで全部一流なんだ、これからも」それからというもの、「いかに社会で異例の出世をするか」について学んだ。偉人伝、伝記、自叙伝、歴史小説、経営学、政治学な一通りだ。だが現実で自己実現するためには、歴史は女で作られる、そして歴史は夜つくられる、歴史には表と裏がある、ということを実践でこの体に覚えさせねばならない。「なあんだ、歴史上の人物はみな変わり者だあ。くそまじめな勉強なんか意味ない。夜の勉強だ、女の勉強だ、裏の勉強だ、そして勝つことだ。勝てば官軍負ければ賊軍だ」と言い聞かせ、社会勉強に励んでいた。


大学四年の時「よし、ぼくは会社を設立して社長をやろう。まずは金儲けをしてみよう」すぐ資本金百萬円を友人というより家来に調達させた。だが「設立したはいいが、商売のネタがない、中身がない」仕方なく大手のN商社に入った。「よし、ここで商売のネタ探しだ、情報入手だ、上司だ、部下だ、組織だ、なあんてクソくらえだ。まずはここで自分の実力を試し、成績をあげながら金儲けのネタ探しだあ」入社し3年が経った頃、わたしは米軍の雑貨品を担当するとともにヨーロッパの雑貨を担当していた。スウエーデンに行った時、どの家も室内の飾りつけが素敵で、とくに照明器具の使い方に工夫があった。実に居心地のよい室内を作っていた。日本に帰り、「今は日本列島改造論がはやり、住宅産業が上昇機運にあり、マイホームブームだ。これまでは家庭の照明もオフィスと同じ蛍光灯ばかりだったが、これから白熱灯、個性的照明がはやるに違いない」と感じて、さっそくいろいろな調査をした。照明器具生産の日本における現状、メーカー、多品種少量生産の方法、大企業の弱み、関連業界の情報収集、販売ルート調査、販売戦略などさまざまな角度で。さらに商社で覚えた営業、外交ノウハウは役立った。なかでも商社が持っている機密情報は有益だった。


「もうこれ以上この会社に用はない。必要なものはそろった。ぼくは誰もが真似のできないやり方で成功するのだ。出来上がった道を歩くなんて嫌だ。ぼくは自分の道を自分でつくるんだ。」そしてわたしは設立してあっただ会社を動かしはじめた。すべてがうまく行った;「世の中で最も強いものは注文書だ。信用ある会社からの注文書さえ手に入れれば、中小、零細の工場は儲からなくても必ず受ける」大企業は同種類品の大量生産は得意だが、家庭用のバラエティーにとんだ多品種少量生産は苦手だ。だから個性ある室内インテリア製品、特に照明器具は作れないし、ノウハウもない。ノウハウを持っているのぼくだけだ。おまけに零細、家内工業は受注数量は少ないが、いろいろな種類を作れる。そこにつけこんだ。大企業からも工場からも重宝がられ、大成功をおさめた。なんと照明器具のメッカ、ヨーロッパにまで逆輸出したり、日本の大手電機メーカーの商品企画顧問にまでなっていた。さらにはスウエーデンのデスクランプメーカーから特許権を買い、日本で大量の学習用デスクランプを販売するまでになっていた。そのため、関東一円の中小零細工場、工業団地、家内工業のほとんどがわたしの注文でいっぱいになるほどだった。たった資本金100萬円の会社が何億の商売をしてしまったのだ。飛ぶ鳥を落とす勢いで、人を出し抜き、人を泣かせ、人を押しのけ、「負けた奴は死ね、弱い奴は死ね」といわんばかりの振る舞いで、なんと5年でのし上がったのだ。


だが、一挙に不幸はやってきた。当時、円ドル相場が固定されていて1ドル=360円だったものが、ニクソン大統領のおかげで変動相場制に切り替えられ、あれよあれよという間に1ドルが200円以下にまでなってしまった。海外から大量受注をしていたため、売れば売るほど赤字となり、さらに国内の中小電気器具メーカーから「あいつは悪党だ。業界の常識、業界の生きる道をつぶそうとしている」という風評を立てられ、日本中から総スカンを食らってしまった。いろんな形で受注、生産、信用の道を妨害されたのだ。わたしはびっくりしたことを覚えている。「あの有名な社長が、わたしに向かって本気で怒り、わたしを本気でつぶし、さらに倒れただけでは物足りず、さらに顔を踏みつけにする」「わたしは、これほどまでに人を怒らせていたのか」と気が付いて、ゾッとした。だが、それも後の祭りだった。
さらに追い打ちをかけるように、わたしは結核性カリエス、つまり背骨の真ん中が結核菌によって溶かされる病気になってしまったのだ。医者から2年間の療養を宣告され、ついにわたしは倒産することとなった。生まれてはじめて「負け」を知ったのだ。痛烈であった。その後の姿は無残なものだった。2年間栄養をたっぷりとって、ストマイとパスを週に3度打って、ただ休むだけの生活。女房と二人の子供は、ほんの少し残ったお金で、2DKの部屋で過ごす。生活がまるで一変した。一日おきに病院に笑顔をとりつくろってやってくる女房と子供の姿を見て「ほんと、すまないな」と頭が下がった。「あなた二度と病気はしないでくださいね」と、この言葉も身に染みた。


入院して考えた「どうしてぼくはこのようになってしまったのか。よりによってどうして今、病気で寝てなくてはいけないのか。ぼくは間違ったことをしていないはずだ。運命なんて信じていなかったが、ひょっとすると運命といったものがあるのかも知れない」わたしは販売されている占いや運や運命に関するあらゆる本を読み漁っていた。ほかにすることがないからでもある。ほとんどが、バカらしい、取るに足らない、次元の低いものばかりであったのだが、安岡正篤著「易と人生哲学」他講演録数冊、と阿部泰山著「四柱推命極意秘密皆伝」12巻、の二人の本だけは、わたしの生き方の反省に役立った。そして運というものが存在し、それが人間学でもあり、人生を生きる法でもあることをわたしに悟らせてくれたのだ。
「ぼくには謙虚さがなかったのだ。人というものを全く大切にしなかったのだ。人を小ばかにしていたのだ。うぬぼれが強すぎたのだ。自業自得だったのだ。そもそも人の上に立つ人間ではなく、人物の側近として働くべき人間だったのだ」などいろいろ反省させられた。


3・地べたに落ちている:


半年間は新橋のH病院での入院生活。あとの一年半は六本木のNクリニックに週3度通うことになった。感染の恐れはないそうだ。はじめてNクリニックへ親子三人で行って、注射代を払い、近くの喫茶店の2階で一息ついた。しばらくして女房に言った「あ~あ、もう来るとこまで来ちゃったなあ。すまんなあ。来月から食うことも、住むこともできなくなったなあ。生活できそうもない。どうしよう、無念だあ」彼女は無言で下向き加減だった。

絶望感が募りつつ、何気なく窓の外を見ていると、ふと「N建物管理株式会社」の看板が目に入った。「ああ~!そういえば、家がなくても、何もなくても生きていける方法はこれかも知れない」と思いついた。そうなのだ、建物の管理人になれば、何もなくても暮らせるのではないかな。すくなくとも寝るスペースだけでもできるかも」すぐに、向かいにあるそのビルに向かった。「すみません、管理人になりたいんですが」「ええっ、君がやりたいの?」「はい」「あのねえ、管理人というのは退職をした人とか、元警官だった人がやるものなの。君のような若い人に向かない仕事だ。その若さで応募に来るということは、何か問題でも起こしたんじゃないの」「いえ、そうではないんですが、なんとかお願いします」「今応募がいっぱいで無理だ、悪いけどお帰りください」しばらくの沈黙の後、女房が突然、涙を浮かべながら話しはじめた。「この人は今結核でストマイを打ちにすぐ前のクリニックにきているんです。人にうつる病気ではないんです。まじめな人なんです。何とかお願いいたします」その担当者は、女房と子供を見ながら、しばらく考え込んでいた。そして一変した答えを出してきた。「ああ、そういえば隣に『Nリュード六本木』という高級マンションが完成したばかりなんだ。六本木だったら若い管理人がいても不自然じゃないな。じゃ、そこでやってみるかね」「あ、ありがとうございます」三人にはその担当者のKさんが神様に見えた。「いつからやれるの?」「明日からでも結構です」「じゃあ、すぐ準備してください」翌日、家賃ゼロ、水道光熱費ゼロ、風呂ありの2DKが与えられた。その上給料17万円ももらえることになり、すぐに自家用車と家具などを運び込んた。女房は毎日ここで健気に掃除やごみまとめをした。私は受け付けで本を読むだけ。そして週2回、ストマイの注射を打ちに、向かいのNクリニックに通った。ストマイを打ったあとは体がしびれるのだ。女房はその健気さで人気上昇、私はためな夫として、住人から嫌われていた。


一番目の「天使」:


そのマンションは投資目的の所有者が多く、その所有者は誰かに貸して、ローンを払っていた。当時土地は年々倍々に値上がりしていた。投資効果満点。だから所有者には、お金持ち、お役人、弁護士などが多かった。しかし、場所がら部屋を借りる人の出入りは頻繁だった。3-4か月住んだと思ったらもう出ていき、また別の人が借りる、といったことが多かった。半年くらい経ったある日の夜、腰の曲がったおばあさんが管理人室にやってきた。「あんたはんは管理人さんかえ~」「ああ、そうだけど」「誰か部屋を借りたいという人が来たら、わたしに連絡してくださいな」「はいわかりました」「このマンションは長く住む人が少ないんじゃよね。プロダクションとかいろんな人が借りるからね」。わたしはこのマンションでは5部屋買ったんじゃ」「あ、そうなんですか。ええと、Tさんですね。希望者が来たらすぐ連絡します」借り手が現れて、Tさんに連絡すると「あんた賃貸借契約書をつくれるかい?」「はい、できますけど」「すまんが、あんたが作成して、立ち会ってくださらんか」「いいですよ」ということで契約日が来た。右に借り手、左に貸し手、私は中央。そして契約が成立した。「あんたはん、これお礼金、25万、どうぞ取りなはれ」「ええ、あはい、ありがとうございます」こんな楽な仕事が世の中にあったのだ、内心の驚きと喜びを抑えて受け取った。その後もTさんは別の部屋でも契約を私に担当させたのだ。三か月に一回ペースであった。何度目かの契約を済ませたある日「今日はあんたはんに話があってきたんじゃ」「ああそうですか」「あんたはんは、その若さでどうしてこんな仕事をしてるんじゃ?」コレコレしかじかでと話すと「そうかえ。でも今はまだ子供が小さいからええけど、物心ついた時、父親がどんな仕事をしているか、ということは大事じゃ。いつまでもこんな仕事をしていたらあかん」「ええまあ、ストマイ注射が終わったら考えようと思います」「いいかえ、わたしは京都の立命館高校の教師をやっていたんじゃ。わたしの教えた生徒はみな東大、京大に進んで、一流企業や高級官僚をやっているんじゃ。わたしの目には狂いはないのじゃ。今のあんたはんを見ていると、見るに耐えられない。情けない。絶対そのままじゃダメ。あんたはんはわたしが応援するから、しっかりやりなさい」と言い残して、米の入った袋と自分で握ったおにぎりを三個、おみやげにおいて帰っていった。わたしは、生まれて初めて「ありがとうございます」と心からの感謝が湧いた。「おにぎりをもらったことに心からこんなに感謝できる自分」がそこに居たのだ。どうも人間が変わりつつあったのかも知れない。人の真心に気がつくことができたのだ。

そのうち、いろいろな部屋のオーナーから契約の立ち合いを頼まれることが多くなった。なんとTばあさんは管理組合の会長だったのだ。契約のたびに家賃一か月分をいただけた。 1年半の間にいくら稼いだことだろう。さらにこのTばあさんは他にも多数マンションをもっていて、わたしに賃借り人の管理をさせたのだ。立ち退かせたり、入居させたりの交渉役と契約代行だ。いろいろな仕事をもらって、総額1千万円くらいの収入となった。管理人をやって一年半となり、ストマイの注射が終わった。


どん底の時に、ふとした出会いでTさんと出会い、一緒に仕事をしているうちに、親子みたいな間柄になった。Tさんはなんと元満州鉄道トップの奥さんだったのだ。世の頂点にいる人間と地べたに潜んでいる人間が過ごした毎日。ぼくは、初めて素直になれた、できた人物から生き方を学ぶことができた。人の言うことは一切聞かず、受け入れなかったわたしが少しは変わってきたのだ。これ以後もこれまで以上に、Tさんはわたしを応援し続けてくれたのである。


ストマイ注射を卒業する一か月前頃、「ぼちぼち、これからをスタートさせないと」と考えを巡らしはじめていた。「おれは3年位損をしたな」今から出世をするためには、どこかの会社に入らねばならない。当時読んでいた司馬遼太郎の「国盗物語」の主人公、斉藤道三がやったように、「出直しをする人間が、あまり優秀な奴ばかり揃ってる会社では出世には不利だ。大企業はもちろんダメ。仕事熱心で頑固なワンマン社長が居て、経営体質の古い、遅れている会社、そして実力がさほどではない幹部しかいない会社を探そう。そこで頭角を現し、社長の懐刀になる。それが早道だな」そのことをTばあさんに話をすると、Tばあさんは嬉しそうな顔をして「いよいよ、その気になってくれはったな」そう言ってから1か月ほど経った時、Tばあさんが「あんたはんの思惑に合いそう会社がある」といってKという和菓子メーカーの話をしてくれた。


以下、次回「第二の天使」に続く。

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